慈恩寺
2022年 09月 22日
ゆっくりと最上川を眺めた後に向かったのは、寒河江市にある慈恩寺という大きな古刹。
神亀1年(724年)に僧行基(ぎょうき)がこの地を景勝であるのを見て京に帰り、聖武天皇に奏上した結果、天平18年(746年)に聖武天皇の勅命でインドの婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)が開山したのが始まりだという。そんな経緯から、当初は法相宗に始まり、天台宗・真言宗・修験の外時宗、禅宗等多様な宗派が入り混り、最終的には、「天台真言両宗慈恩寺派」となったが、昭和47年(1972年)「慈恩宗大本山慈恩寺」として独立し、独自路線の宗派となっているらしい。
神亀1年(724年)に僧行基(ぎょうき)がこの地を景勝であるのを見て京に帰り、聖武天皇に奏上した結果、天平18年(746年)に聖武天皇の勅命でインドの婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)が開山したのが始まりだという。そんな経緯から、当初は法相宗に始まり、天台宗・真言宗・修験の外時宗、禅宗等多様な宗派が入り混り、最終的には、「天台真言両宗慈恩寺派」となったが、昭和47年(1972年)「慈恩宗大本山慈恩寺」として独立し、独自路線の宗派となっているらしい。
参道を進むと階段の上に巨大な仁王門が立ち上がり、二体の仁王像が鎮座する。
仁王門をくぐり階段を登ると、古刹の趣たっぷりに、茅葺の本堂が立っている。
本堂は、境内の中で最も古い建物。元和4年(1618年)山形城主最上氏による再建された。400年を経て、桃山時代の様式や重厚な茅葺(かやぶき)屋根を今に伝えている。再建当時裏山に群生していたヒメコマツを使った66本の柱は、日本60余州を表したものといわれているらしい。本殿内は撮影禁止なので撮れないのだが、外陣天井には竜や天女が見事に描かれていた。本堂には、本尊の弥勒尊(ほんぞんみろくそん)ほか秘仏33体が内陣の宮殿に安置されているが、非公開だった。
隣の薬師堂に安置されている十二神将が、本堂内の一角に展示され、その見事な彫刻の様子をまじかで見ることができるようになっていた。この寺の仏像の多くが鎌倉時代後期の作で、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する寒河江ゆかりの大江広元公がこの寺にも関わっていたらしい。その時代の仏像が多いのも鎌倉時代にこの一帯が栄えていた証拠かのかもしれない。
本堂横には、薬師堂と阿釈迦堂があり、薬師堂は本堂と共に参拝ができる。
薬師如来と脇座の日光月光菩薩は、鎌倉時代後期の木造像。
薬師如来と脇座の日光月光菩薩は、鎌倉時代後期の木造像。
その他、境内には、不動堂、天台智者大師堂、釈迦堂、宝蔵院などが立っている。
そして少し離れた場所には、三重塔が立つ。もともとは、慶長13年(1608)に、山形城主最上義光(もがみよしあき)の寄進により建立された。文政2年(1823)に隣家の火災により類焼し、同13年(1830)に地元の大工棟梁布川文五郎(ぬのかわぶんごろう)によって再建され、今に至っている。
境内のいたるところに彼岸花が咲き、初の終わりと秋の到来を知らせている。参詣する人の数も多くなく、静かな寺だったが、本堂参詣時に、ちょうどどこかのテレビ局のカメラクルーとアナウンサーが、本堂内の十二神将を撮影しているところだった。
東北は神社よりも寺院が多く、地方の豪族や地方政府と協力に結びついていたようだ。たまには寺院を参詣するのも良いものだと思う。
境内のいたるところに彼岸花が咲き、初の終わりと秋の到来を知らせている。参詣する人の数も多くなく、静かな寺だったが、本堂参詣時に、ちょうどどこかのテレビ局のカメラクルーとアナウンサーが、本堂内の十二神将を撮影しているところだった。
東北は神社よりも寺院が多く、地方の豪族や地方政府と協力に結びついていたようだ。たまには寺院を参詣するのも良いものだと思う。
by darjeeling_days
| 2022-09-22 12:00
| temple:寺院
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