海岸寺で守屋貞治の石仏を愛でる
2025年 07月 28日
9時すぎにおいしい学校をチェックアウト。既に気温は上がりつつあるが、今日も軽装で夏対策はしっかりとする。
そして最初に向かうのは、おいしい学校から5~6分のところに位置する「海岸寺」。
このお寺に関しては、X.comの石仏好きの蚯蚓蛞さんに教えていただいた場所。北杜市には、様々な見ごたえのある石像やら道祖神が沢山あるのだけれど、その中でも、やはり一度は見ておいて損はない石仏が沢山鎮座している場所なのである。
そして最初に向かうのは、おいしい学校から5~6分のところに位置する「海岸寺」。
このお寺に関しては、X.comの石仏好きの蚯蚓蛞さんに教えていただいた場所。北杜市には、様々な見ごたえのある石像やら道祖神が沢山あるのだけれど、その中でも、やはり一度は見ておいて損はない石仏が沢山鎮座している場所なのである。
海岸寺は、須玉町上津金の海抜1,000mの山中にある妙心寺派臨済宗の寺。
開山は、奈良時代の養老元年(717年)に行基が庵をかまえたのが起源らしい。当時、行基が彫った2体の千手千眼観世音のうち1体は海岸寺へ、もう1体は長野県の海岸寺に奉られたという。
737年には聖武天皇から『光明殿』の勅額を賜り国の祈願所となったという。どうしてこんな関東の小さな寺が、そういうのに選ばれるのか、不思議だけれど、由緒ある寺ということなのだろう。
その後11世紀には甲斐源氏の祖として知られている新羅三郎義光が京より玄観律師を海岸寺に迎えて国家鎮静の大道場としたという。そして14世紀の武田氏の支配する時代には鎌倉の建長寺から石室善玖和尚を招いて臨斉宗に改宗し海岸寺の開祖としたのだとか。
1582年(天正壬午の乱)に織田信長が甲斐武田に侵攻した際に寺は焼き払われたが、翌年、徳川家康によって再興され、1603年に天下安寧の祈願所として定められた。
こういった由来だけみると、なかなかのお寺だったのがよくわかる。現在は、観光寺院ではないので、静かに参拝する必要があるのだけれど、門は開いているので、中に入って参拝は可能だ。
ちなみにこんな山の中なのに、「海岸寺」という名前が付いた由来は、何だろうと思ったが、経文からきているという説が有力らしい。「観世音の本所、補陀落山は天竺南海中にあり」という新華厳経第68説話があるのですが、この補陀落山は海岸孤絶山とも言われることから海岸寺の名が付けられたのだとか。
でも、もう一つの方が説得力がありそうだ。なんでも、いわゆる八ケ岳の爆発で出来た大きな湖が由来らしい。小海・海ノ口など「海」の字の付いた地名がいくつかあるが、これはみな、この大きな湖が由来と言われている。そこにどんな風に湖があったのか、とても興味深い。
開山は、奈良時代の養老元年(717年)に行基が庵をかまえたのが起源らしい。当時、行基が彫った2体の千手千眼観世音のうち1体は海岸寺へ、もう1体は長野県の海岸寺に奉られたという。
737年には聖武天皇から『光明殿』の勅額を賜り国の祈願所となったという。どうしてこんな関東の小さな寺が、そういうのに選ばれるのか、不思議だけれど、由緒ある寺ということなのだろう。
その後11世紀には甲斐源氏の祖として知られている新羅三郎義光が京より玄観律師を海岸寺に迎えて国家鎮静の大道場としたという。そして14世紀の武田氏の支配する時代には鎌倉の建長寺から石室善玖和尚を招いて臨斉宗に改宗し海岸寺の開祖としたのだとか。
1582年(天正壬午の乱)に織田信長が甲斐武田に侵攻した際に寺は焼き払われたが、翌年、徳川家康によって再興され、1603年に天下安寧の祈願所として定められた。
こういった由来だけみると、なかなかのお寺だったのがよくわかる。現在は、観光寺院ではないので、静かに参拝する必要があるのだけれど、門は開いているので、中に入って参拝は可能だ。
ちなみにこんな山の中なのに、「海岸寺」という名前が付いた由来は、何だろうと思ったが、経文からきているという説が有力らしい。「観世音の本所、補陀落山は天竺南海中にあり」という新華厳経第68説話があるのですが、この補陀落山は海岸孤絶山とも言われることから海岸寺の名が付けられたのだとか。
でも、もう一つの方が説得力がありそうだ。なんでも、いわゆる八ケ岳の爆発で出来た大きな湖が由来らしい。小海・海ノ口など「海」の字の付いた地名がいくつかあるが、これはみな、この大きな湖が由来と言われている。そこにどんな風に湖があったのか、とても興味深い。
で、この寺をわざわざ訪ねたのは、冒頭に書いたように、石仏を見るため。
海岸寺の境内には西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の各札所の観音像や延命地蔵尊などを移した百番観世音石仏が安置されている。
これらの石仏の製作者は長野県高遠の出身で江戸時代後期の名工であった守屋貞治(もりやさだじ)(1765‐1832)だ。
守屋貞治の名を知ったのは3年前。松本の奥座敷、浅間温泉にあった延命地蔵。これが守屋貞治作だった。
とてもきれいな顔立ちの石仏で、高遠出身の石工の中でもその腕は秀でていたらしい。
海岸寺の境内には西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の各札所の観音像や延命地蔵尊などを移した百番観世音石仏が安置されている。
これらの石仏の製作者は長野県高遠の出身で江戸時代後期の名工であった守屋貞治(もりやさだじ)(1765‐1832)だ。
守屋貞治の名を知ったのは3年前。松本の奥座敷、浅間温泉にあった延命地蔵。これが守屋貞治作だった。
とてもきれいな顔立ちの石仏で、高遠出身の石工の中でもその腕は秀でていたらしい。
この寺に鎮座する百番観世音は貞治の生涯の全作品のうちの約3分の1にあたり彼が50歳をすぎた頃に8年を費やして彫ったと伝えられている。どの石仏も表情が穏やかで、仏像というよりも、芸術作品のようだった。
仏を詣でるという気持ちよりも、美しい美術品を愛でるという気持ちが強いのが本音だから、その心持は、和辻哲郎の『古寺巡礼』のような感じなのだろうか。まああそこまで哲学的ではないけれど。
時間を忘れて、すっかり石仏に見入ってしまったのだった。
仏を詣でるという気持ちよりも、美しい美術品を愛でるという気持ちが強いのが本音だから、その心持は、和辻哲郎の『古寺巡礼』のような感じなのだろうか。まああそこまで哲学的ではないけれど。
時間を忘れて、すっかり石仏に見入ってしまったのだった。

by darjeeling_days
| 2025-07-28 09:45
| temple:寺院
|
Comments(0)








